昭和49年不明  大坪徳蔵五十日祭における親先生の御挨拶


 お御霊様の、今日から父の御霊が御霊様の、いうならお仲間入りをさせて頂くという意味の事をお礼を申させてもうろうたり、また御願いをさせていただいておりましたら、もう御神殿で、霊舎でも今日はおいさみのあり通しでございました。本当におかげを頂きまして十日十日の旬日祭も滞りなくおかげを頂きまして、今日五十日祭、そして合祀祭をこのようにおかげを頂く事ができまして、本当に有難いと思うております。
 ★昨日、一昨日でございましたか、皆さんにあの、偲び草にと思いまして、父が残しましたお歌を私が色紙に書きまして、それをあの、印刷に頼んでおりましたのができてまいりました。それでそれをお供えさせていただいて神様にお届けさせて頂いておりましたら、親の責任、子の責任と頂きました。本当に私はあらためて思わせて頂いたのですけれども、父の御霊様にあらためてその事を御礼を申させていただきました。親の責任としての子供、そして、まあ私と妹でございますけれども、まあこのようにお育てを頂いて、御霊としてももう、いうなら不安気の無い子供に、まあお育てを頂いておったという事、御霊も安心でしょう。私共もこれより上の喜びは無いのでございます。
 そこで、なるほど、親は責任を見事に果たしておかげを頂いたわけでございますから、これからは子の責任としての信心がいよいよ大事にされなければならないという風に思わせて頂いております。なかなか不行き届きな事でございますけれども、先ほど五十日祭を奉仕させて頂きます時に、代表の方達が全部あちらへおい出て頂いて、それぞれ玉串を奉って頂きました。ちょうどあの、日田支部長の綾部さんが玉串をおあげになっておる、私は後ろへ居りましてね、締めておられる帯の後ろにはすの花と葉の刺繍か何かの図柄の帯をなさっておられます。それを見たら途端に感動するんです。おそらくは今日のこういう霊祭の事でございますから、いわばあの、心遣いです。やはりあの、お精進向きとでも申しましょうか、その御霊様へのまあ心遣いというものがです、いうならその、帯を締めて来る、その時にそういう心が遣われるという事がこれからの御霊様へ対するところのまた願いでも思いでもなからなければならないという事であろうと、私はその、感動を通して思わせて頂きました。やはり心遣いです。
 今日ちょうど午前中に、鳥栖の市長さんが初めて御参拝のおかげを頂かれました。それで応接間でお茶でも差し上げてお話をさせて頂いた事でございますけれども、実はこちらに参ります車の中でお導きの上野さんから、今日はあちらのお父様の五十日祭のお祭が仕えられるという事を聞かせて頂いて、私は今日の御霊様は大変力のある神様だな、私がもう随分長く上野さんにそのお導きを受けてですね、どうかお参りしたいお参りしたい、ぜひいっぺんと思うけれども、どうしてもそのお参りをする機会を得なかった。ところが今日朝から、とにかくあの、お参りさせて頂きたいというこう思いで上野さんに電話をかけさせて頂いたら、ほんなら私がお供しましょうという事で、車の中で上野さんからその事を聞いて、本当に今日は御霊様のお導き今日私はお引き寄せを頂いたという意味の事を話されるんです。それで私は、本当に有難うございました、実はもうこのお道の信心はね、どこまでも天地がバック、いうならば、天地のご守護の中に、しかもこういうご守護を受けておるという実感を日々感じさせて頂きながらの信心、いうならば、天地が奏でて下さるリズムに見事に乗っていくという生き方。もうこういう生き方を身に付けていくならばです、市長さん、あなたの、今あの、難儀ないろんな問題を今日は持っておられたんです。けれども、そういう難儀な問題もです、私はスムーズにです、おかげが頂けれると思う。もう何といったって天地がバックというほどしの強い事はありませんよ。と言うて、私は父が亡くなりまして今日までの十日十日の旬日祭の事から今日の事までお話させていただいたんです。ただ一回二回なら(ふ?)が良かったというのですけれども、この天候の事だってです、昨日あのようなお天気でございましたが、今日はそれこそ小春日和のようなお天気の中に、それこそ暖房も入れんですむような暖かい中に、今日のお祭が奉仕された。例えば、お国替えのおかげを頂きましたのも、ちょうど16日の報徳祭が終わらせて頂いて、久富先生と重雄さんが二人で父のところへ行かれて、もう今日はおじいちゃま、大変なお祭でしたよと、参拝も大変な参拝でしたよと言うたら大変喜んで、帰る時にさよなら言われると、自分もやっぱり挨拶をさせて頂いて、それこそ何事も無いような状態でお別れした。まあ、お二人が最期のお話された方達なんです。そして、(よはん?)に急変が起こりましてお国替えのおかげを頂いた。どうだろう、あれがお祭の半ばであったり、お祭の前の日であったり、そしてあくる日のお通夜をさせて頂きます時に、山本の従兄弟が申すんです、こりゃ困ったの、こげん雨嵐じゃ明日火葬場へという、私が申しました、これはね、天地がね大地を清めて下さっておるんだよ。明日はちゃんとおかげ頂くよ。今日は天地が大地を、大地にかえっていかれる御霊様の為に、いわば祝福して下さっておるこれは雨だよというて申しておりましたが、あくる日、いよいよ火葬場に十三台の車を連ねてまいります時にはお天気もつっとおかげ頂いておる。もうそういうような事から、十日十日の旬日祭に万事万端にお繰り合わせを頂いた話をさせて頂いたら、はあそういうおかげの受けられる神様ですかと言うて、今日は御霊に導かれるようにお話をさせてもらい、御霊に導かれるように初の御参拝をなさった鳥栖の市長さんにそういう事をお話したような事でございました。
 もう私は、色紙に下手な字ですけれども私が書かせて頂きました時に、もうあの、繰り返し読ませて頂けば読ませていただくほど、初めはちょいと(やや?)んごたるこりゃ歌たいと思いよったのがです、だんだん深さを増してくるのに自分ながら驚きました。それを書かせて頂く時に、「有難し ただ有難し 有難し 我が身一人はもとの身にして」という歌です。そのもとの身にしてというところの深さに私はただただ驚いております。無学でありました父がです、なら歌心があったわけでもないのにです、ただ八十八歳のお祝いをさせて頂きます時に、その、いうならば、感激というか喜びをです、本当にまあそうした歌につづったわけでございましょうけれどもです、本当に私共もこういうようなね、おかげを受けたい、我が家でありたいといよいよ感じずにはおられませんでした。私共にいうならばもう皆さんもご承知のように、もう本当にだんまりの人でした。私共子供から父から大きな声で怒られた事もなし、また注意がましい事を言われた事もございませんでした。それでいて私共がかく信心を頂かせてもろうて、親の責任子の責任、親は見事にその責任を果たして下さった。ですからこりゃ子としての、例えばご先祖に対する、親に対する御霊への奉仕といったような事もです、それこそ、綾部さんのあの帯の心遣いのような心遣いを持ってこれからもいよいよ御霊の、いよいよ働きがおできになる、安心の御霊(?)の御霊としてのおかげを受けられる事の為に私共が子としての道、いわば子としての責任を果たしていかなければならないというような事を感じさせて頂いたのでございます。
 本当に今日は皆さん、お忙しい中にたくさん御参拝をこうして頂きまして、さぞかし御霊様もお喜びの事と思いますと同時に、天地の親神様も、三井教会初代教会長であります荒巻弓次郎大人の御霊様のご加護、ご守護を受けて、これからはいよいよ御霊の世界での喜びを現していく事であろうと思います。五十日間、それは御霊としての大変な修行の、私は五十日間だったと思います。おかげを頂いて五十日の修行を終わらせて頂いて、あらためて御霊様のいうならばお仲間入りができて、いよいよ喜びの御霊、安心の御霊として、または、私どもの、いうならば今日の鳥栖の市長さんじゃないですけれども、今日はそのお父様の御霊様に導かれて参ったんでしょうと言われるようなお導きを受けなければならないという風に思うのでございます。
 簡単ですけれどもご挨拶にかえさせて頂きます。